賃貸人が、当初定めた退去時の負担区分表に基づいて、敷金から通常損耗の補修費用を引いて賃借人に返還したところ、それを不当として訴えられたのです。
最高裁は、通常損耗分は賃貸借契約の本質上、当然予定されているものであり、賃料に含まれているとしたのです。
ただし、契約自由の原則から、通常損耗について原状回復義務特約を設けることは認めました。それには、少なくとも次の2つの要件が必要としました。
1.賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されていること。
または、
2.仮に賃貸借契約書では明らかでない場合には、賃貸人が口頭により説明し、賃借人がその旨を明確に認識し、それを合意の内容としたものと認められるなど、その旨の特約(以下「通常損耗補修特約」という。)が明確に合意されていることが必要であると解するのが相当であること。
訴訟となったこのケースでは、契約書に通常損耗補修特約の成立が認められるために必要なその内容を具体的に明記した条項はないこと、本件契約締結前の入居説明会でも通常損耗補修特約の内容を明らかにする説明はなかったことを挙げ、賃借人は契約締結に当たり、通常損耗補修特約を認識し、合意の内容としたものということはできないから、本件契約において通常損耗補修特約の合意が成立しているということはできないとしたのです。
逆に言えば、上記の2点について賃借人が明確に合意していれば、通常損耗補修特約は有効とされるという意味でも意義のある判決といえるでしょう。
しかし、この判決でも最高裁は、消費者契約法との関係については判断を示しておらず、まだまだ問題は残されたままという現実があることも事実といえます。
従来、商業ビルは、住居用の建物賃貸借契約と比べて、より広範に賃借人の原状回復義務が認められると考えられていました。ところが、通常損耗の部分の補修費を賃借人に負担させる場合には、賃借人が明確に認識し、合意の内容としたと認められるような証拠(契約書に明記するなど)が必要であるとの判断が大阪高裁(平成18年5月23日判決)で下されました。これは明らかに前記最高裁判決の影響が見受けられます。
この判決では、原状回復義務を負う旨の特約が締結されたか否かを検討した上で下記のような判断を下しました。
この賃貸借契約には、契約が期間満了または解約により終了するときは、終了日までに、賃借人は本件貸室内の物品等一切を搬出し、賃借人の設置した内装造作諸設備を撤去し、本件貸室を原状に修復して賃貸人に明け渡すものとするとの条項がありました。
しかし、この条項は、その文言に照らし、賃借人の用途に応じて賃借人が室内諸設備等を変更した場合等の原状回復費用の負担や一般的な原状回復義務について定めたものであり、この規定が、賃借人が賃貸物件に変更等を施さずに使用した場合に生じる通常損耗分についてまで、賃借人に原状回復義務を認める特約を定めたものと解することはできないとしたのです。
したがって、同条項は、賃借人が通常損耗について補修費用を負担すること及び賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲を明記するものでないことは明らかであり、また、賃貸人がこれらの点を口頭説明し、賃借人がその旨を明確に認識し、それを合意の内容としたと認められるなど、その旨の特約が明確に合意されていることを認めるに足りる証拠はないとしました。ですら、本件賃貸借契約において、通常損耗分についても控訴人が原状回復義務を負う旨の特約があることを認めることはできないとの判決を下したのです。
この判決が最高裁の判断を踏まえた判断であることを考えますと、今後、商業ビルや事業用建物の賃貸の原状回復についても、この判決と同様な判断が下される可能性は十分にあることを忘れてはいけないでしょう。
また敷き引きについて、消費者契約法との関連を示した判例もあります。神戸地裁平成17年7月14日判決です。
神戸地裁は、消費者契約法10条の「信義則に反し一方的に不利益であるため無効」との定めを適用し、敷引特約を無効であると判断しました。
敷引特約は、賃貸目的物件について予め付されているものであり、賃借人が敷引金の減額交渉をする余地はあるとしても、賃貸事業者(またはその仲介業者)と消費者である賃借人の交渉力の差からすれば、賃借人の交渉によって敷引特約自体を排除させることは困難であり、かつ敷引特約を一方的に押しつけている状況にあるといっても過言ではないため、敷引特約は、賃貸借契約に関する任意規定の適用による場合に比し、賃借人の義務を加重し、信義則に反して賃借人の利益を一方的に害するものであると考え、消費者契約法10条により無効であると判断したのです。
しかし、本判決が直ちに一般化されるかどうかについては、最高裁等の判例が既に蓄積されており、それらの判例を無視してまで、信義則及び消費者契約法を理由として、地域的慣行や、当事者間の合意を簡単に無視して、敷引特約を一般的に無効とできるかどうかについては、極めて疑問の点も存します。
したがって、この判決については、直ちに一般的なものであると考えるのは早過ぎますが、この判決を踏まえて、敷引特約を締結する場合には、今後は消費者契約法10条を視野に入れた対策を講ずることが必要ではないでしょうか。消費者から敷引特約が一方的に不利益な条項と主張されないため、また、消費者に対して消費者契約法上も有効であると反論できるようにするためにはどのような対策が必要かという点を検討する必要があるでしょう。
(本稿は、社団法人全国賃貸住宅経営協会発行『賃貸経営塾』連載の「シリーズ賃貸判例、弁護士田村宏次著」を参考にさせていただきました)